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茶箱 茶道★和菓子★展覧会 

茶箱の中は好きなモノでいっぱい!

茶道の銘を考える「三夕(さんせき)」

茶道のお稽古では、毎回勉強をかねてお茶碗や茶杓にをつけることになっています。和歌の中の言葉を使ったり、季節を感じる言葉を使ったり、禅語を選んだりします。勉強不足の私は、相変わらず毎年、毎回お稽古場に置いてある先生お手製のアンチョコ集を見て適当に選んでます。

しかし!ここでしっかり考える大人の女性を目指すため和歌を学びたいと思います。

10月の名残の月によく使われる「三夕(さんせき)」について学びます。

『新古今和歌集』巻第四(秋歌上)に並んでいます。

「さびしさはその色としもなかりけり真木(まき)たつ山の秋の夕暮れ」寂蓮

「心なき身にもあはれは知られけり鴫(しぎ)立つ沢の秋の夕暮れ」西行

「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋(とまや)の秋の夕暮れ」藤原定家

寂蓮の夕暮れ

「さびしさはその色としもなかりけり真木(まき)たつ山の秋の夕暮れ」

秋の寂しさは「どの色がとりたてて」ということもない。その色が寂しいという訳でもないが、真木の立つ山の秋の夕暮れは、なんとなく寂しさを感じるものだな。という意味です。

わかりやすい歌です。なんともいえなく「さみしい」んですね。子どものころ、夕方になっても両親が帰ってこなくて家にポツンといたときに、部屋に入りこんでくる夕日の光がなにかさみしく感じたあの気持ち?ですかね。

寂蓮は、三十代で出家した歌僧。後鳥羽院は寂蓮を「なほざりならず(いいかげんでなく)」歌を詠んだとし、鴨長明はその人柄を讃えているといいます。まじめで、温厚な人だったのでしょう。

西行の夕暮れ

「心なき身にもあはれは知られけり鴫(しぎ)立つ沢の秋の夕暮れ」

出家して風流がわからない私にも、鴫が飛び立つ沢の秋の夕暮れには、しみじみと「もののあはれ」は感じられるものだ。という意味です。

藤原俊成はこれを「心幽玄に姿及び難し」と絶賛したそうです。本当は和歌を詠むぐらいなんだから、風流に富んでいるのに謙遜ですかね?

西行は、もともとは武士だったが、二十三歳で出家しています。月と花の歌僧といわれます。また、恋の和歌を多く詠んでいます。実生活は謎が多い人です。百人一首に載っている歌も恋の歌で、私のイメージはセクシーなお坊さんです。

西行の和歌に対しては、なんとなく恋を絡めてみてしまいます。この和歌も好きな人とうまくいかなくて、自分を卑下しながら詠んだような気もします。セクシーで頭もいいから、女性からもてるんだけど、本当に好きな人とは上手くいかないの、彼。という感じです。本当のところは、どうなんでしょうか? 

定家の夕暮れ

「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋(とまや)の秋の夕暮れ」

茶の湯では定家の和歌が茶の湯の侘びに相通じるとされてきました。
その風情は、見渡す浦辺には春の美しい花も秋の紅葉も見られない、すべてが消え去った後の夕暮れのうら寂しさ、静けさがある。そしてそのなかに苫屋が見えているな。浦辺からは海が広がり、近くの里山にもひっそり苫屋が見える。という意味です。

ちょっと分かりづらい和歌です。風情だけで、感想感情は記してないけれど、さみしさ感満載です。さみしさがあふれ出ています。ひとりぼっちなんですよね。きっと。

すごく美しい景色が目に浮かびますが、それが定家にとっては、さみしい景色なんでしょう。そのさみしい夕焼けをが美しいんですね。

だんだん、秋の夕暮れをさみしいとおもう境地には、まだ至ってない自分が幸せに感じてきました。そのうちに、夕暮れを見ながら「きれいだな」ではなく「さみしいな」と思う日がくるのでしょうか。

 

まんがで読む 万葉集・古今和歌集・新古今和歌集 (学研まんが日本の古典)

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